オオナゾコナゾ

種子島ぴー/九州出身、東京在住。夫と二人暮らしです。旅行のこと、フィギュアスケートのこと、香港のことを中心に、右から左へ流せなかった大小の謎やアレコレを、毒も吐きながらつづります。

「浅田真央の影響は、このさき何年も続くだろう」。 フィリップ・ハーシュ氏寄稿 icenetwork記事/前半

もともと政治色の強いスポーツだったフィギュアスケートが、茶番につぐ茶番で、プロレス興行化してきている。大きな違いは、選手たちにシナリオが伝えられていないことだ。勝手に茶番劇の配役に加えられても、ギャラが支払われることはない。

来る日も来る日も冷たい氷の上で朝早くから練習し、報われると信じて努力する選手たちが、気の毒になることがある。大人たちが描いた茶番劇の中で、浅田真央はどういう役回りを与えられていたのだろうか。と考えてみたりする。

さて、彼女が引退を表明した日に「icenetwork」に寄稿されたフィリップ・ハーシュ氏の記事を、前半・後半に分けて訳してみたい。

 

 

 

浅田真央の影響は、このさき何年も続くだろう。

web.icenetwork.com

トリプルアクセルと銀盤での突出した優雅さによって記憶される、引退したスケーター
2017年4月10日。icenetwork  written by Philip Hersh

※以下の翻訳は当blog運営者が浅田真央さんへの愛情と尊敬の念をもって勝手に訳したもので、内容に関してPhilip Hershさんは一切の責任を負っていません。

 

浅田真央がうまく滑れたときはいつも(よくあることでしたが)、私は、ヴェルディ作のオペラ『リゴレット』の有名なカンツォーネ「La Donna è Mobile」の2行目を思い出します。


*日本語のタイトルは「女心の歌」。歌詞は確か「風の中の~羽のように~いつも変わるぅ、女ごころ~」ですね。興味がある方は、視聴してみてください。


ヴェルディ《リゴレット》「女心の歌」デル=モナコ


曲のタイトルや気まぐれな女性たちを冷やかしたオープニングの歌詞「風の中の羽のように」を聞けば、風の中を舞う羽のイメージが浮かんでくるでしょう。これは、氷の上で動く浅田真央を表現するのにぴったりです。キャリアの晩年の20代半ばに、ほとんどすべてのほかの女性選手たちとはキャリア全体を通して一線を画してきたジャンプに、大人の女性の上品さを加えても尚、彼女は羽のように軽かったのです。

 

そう、彼女は空気よりも軽くなった。

 

月曜日に26歳で引退を表明した浅田真央を、私はそう記憶することでしょう。引退表明のタイミングは驚きでした。たとえ彼女が演技に苦戦していて、過去2シーズン、膝の問題を抱えており、そろそろ潮時だと分かっていても。


スポーツにおける競争力という点では、彼女は2003-2004年シーズンのグランプリシリーズから導入された国際的なジャッジング・システムの時代の疑う余地のないナンバー2のスケーターでした(なんですとー!!)。その14シーズンの間、××の××だけが、浅田の業績をしのぎました。(浅田真央をほめているのか下げているのか、 ジャッジを皮肉っているのか、、、)

f:id:tanegashimapi:20170426011059j:plain


*訳し間違い(屋久島治外☜何度打ってもこう出る)かもしれないので原文引用

She leaves the competitive side of the sport as the indisputable No. 2 skater of the international judging system era, which began with the 2003-04 Grand Prix season. In those 14 seasons, only the achievements of South Korea's Yu-Na Kim surpassed those of Asada.

 

オリンピック銀メダル、3度の世界選手権優勝、世界選手権の銀メダル、銅メダル、4度のグランプリファイナリスト、3度の4大陸選手権優勝、熾烈な競争が繰り広げられる中での6度の全日本選手権優勝。


浅田は、2006年に16歳で世界最高得点を叩き出し、2014年に23歳でショートプログラムの世界最高得点を記録しました。2007年のフリースケーティングの世界最高得点も含めて、こんなに長いあいだ輝き続けるなんて驚くべきことであり、唯一無二のことです。


ソチオリンピックの後の休養期間を経て戻ってきた2シーズンで、彼女のスケートの全体的なレベルが批判されたときでも、一人の人間として浅田に最高の賛辞を贈らない人は、スポーツ界にいませんでした。当時も。その後も決して。


浅田は、2005年秋から2008年の世界選手権まで、最高の女性スケーターでした。「MAO,WOW! 真央、すごい」の時代です。しかし、そのとき設定された、こっけいな矛盾だらけの国際スケート連盟のルール(2006年のシニアグランプリファイナルでは戦えるけど、オリンピックからは彼女をはずすというもの)によって、トリノオリンピックの金メダルが獲れただろうに獲れませんでした。


2004年のジュニアグランプリで、彼女はトリプルアクセルを跳び、数々の歴史を創っていく第一歩を踏み出しました。トリプルアクセルは、彼女の代名詞でもあり、後に彼女に重くのしかかるものになってしまいましたが。


「トリプルアクセルを重荷だとは、思っていません」と、2014年のオリンピックで彼女は力強く言いました。「私を奮い立たせるものなんです」。(よく言った!!)

-----前半はここまで。

 

後半はこちらです。