オオナゾコナゾ

種子島ぴー/九州出身、東京在住。夫と二人暮らしです。旅行のこと、フィギュアスケートのこと、香港のことを中心に、右から左へ流せなかった大小の謎やアレコレを、毒も吐きながらつづります。

後半/「浅田真央の影響は、このさき何年も続くだろう」。 フィリップ・ハーシュ氏寄稿 icenetwork記事

浅田真央が引退を発表したときの、山田コーチの新聞インタビュー記事。

 

----「真央が若い力に負けたという言い方はやめて」と訴える。時代の流れでフィギュアスケートが違う方向に向かっている。その中でもがき苦しんで、流れに十分ついていってよく頑張った」と話した。----

 

その通り!! 選手は日々、向上しているのに、ルールや茶番劇のシナリオを勝手に書き換えて、評価を操作しているのはどこのどいつだ!と言いたい。

 

でもね、webのニュースになると「真央が若い力に負けたという言い方はやめて」は省略され、「時代が変わり、もがき苦しんでよく頑張った」になっているのはなぜかな? これじゃあまるで、「若い人たちの時代になって負けた」と、山田コーチの意見と正反対の印象に聞こえるけど。

 

さて、2017年4月10日のicenetworkの記事「浅田真央の影響は、このさき何年も続くだろう」の後半を訳すことにする。

  

web.icenetwork.com

 

前半はこちらの記事。

www.tanegashimapi.com

※以下の翻訳は当blog運営者が浅田真央さんへの愛情と尊敬の念をもって勝手に訳したもので、内容に関してPhilip Hershさんは一切の責任を負っていません。

 

 トリプルアクセルを跳んだと認定されている女性は、7人しかいません。浅田が初めて トリプルアクセルを跳んでからは、他に2人だけです。

 

2006年、浅田は初めてショートプログラムでトリプルアクセルを跳びました。2008年には、初めて国際大会の一つのプログラムの中で、トリプルアクセルを2回跳んでいます。2010年のオリンピックでは、ショートプログラムでトリプルアクセルを跳んだ史上初の女性であり、フリープログラムで2つのトリプルアクセルを跳んだ史上初の女性であり、一つの大会で3つのトリプルアクセルを跳んだ史上初の女性になりました。

 

2010年のオリンピックで、浅田はミスをして銀メダルに終わりました。しかし、全体的に見て、彼女の演技は驚くべきものでした。とりわけ、ものすごく陰鬱な音楽でフリープログラムを滑るという重荷を負っていたにもかかわらず。それでも彼女が23点××に届かなかったということは、バンクーバーでの××の××の演技が、いかに××だったかということを物語っています。

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しかし、浅田のキャリアの最後の数年---トリプルアクセルが彼女に、いちかばちか(でも跳ばなければならない)強迫観念(を与えている)ように見えても---そのインパクトは彼女のスケート全体のクオリティに包含されていたのです。彼女の非常に美しいエッジ、印象的なボディポジション、卓越したフットワークは、わずかなライバルしか競うことのできない洗練されたレベルのものでした。

 

2015-2016年シーズンのショートプログラム「すてきなあなた」では妖艶な女性。2011年と2012年のフリープログラム・リストの「愛の夢」では、内に秘めた喜びを最後に爆発させる哲学的な演技。2012-2013年シーズンのフリープログラム「白鳥の湖」では、申し分のないバレリーナ。彼女は役を演じることができる人でした。

 

2006年の秋にシニアの資格を得た最初のシーズンでさえ、浅田の芸術性は、力強いジャンプで空中に浮くのと同じくらい魅力的でした。


これは、私が2006年のスケートアメリカで、彼女のショートプログラムについて書いたものです。

 

「それは、スケーターが極めて楽々と芸術とスポーツを融合させ、観客を驚き称賛させることで、なぜこのスポーツ(スケート)がすばらしいかを人々に思い出させた。そんな瞬間でした」。(意訳)

 

同じ大会でフリープログラムの出来が悪く、浅田が3位に沈んだときでさえ、ディック・バトン爺はこう言いました。


「真央のようなスケーターを、わしゃあ、今まで見たことない。これほど流れるように柔らかく上品で、独創性があって、技術的に厳しく過酷な(トリプルアクセルを)やり遂げようとするアスリート魂を持っておるとはのう」。

 

彼女はあのとき、とてもちっちゃかったので--40キロ、152センチくらいだったんじゃないかな。--壊れやすくて空気のような雰囲気が後年ついてまわりました。

 

浅田は戦士でした。6つの全日本選手権優勝のうちの5つめが、2011年秋の母親の早すぎる死から数週間しかたっていなかったことが、その証です。

 

戦士である証は、2014年のオリンピックでも見られましたね。ショートプログラムでトリプルアクセルを失敗し、メダルのチャンスを逃して、暗く痛々しい16位に終わったときのことです。

 

(ショートプログラムの)粗い演技から、トリプルアクセルを着地し、素晴らしいほぼ完ぺきなフリープログラムで、会場にいた人々のみならず、テレビで見ていた何百万人もの人々のハートをつかんで、フリー3位へと巻き返しました。

 

演技が終わると、彼女は涙にむせんでいました。泣いていたのは、彼女だけではありません。


「ただ、ただ、浅田真央に涙が出たよ。でも、心の中は温かかった」。
2度のオリンピックの銀メダリストであり、3度の世界選手権優勝者であるカナダのエルビス・ストイコはツイートしました。

 

「浅田真央には泣かされたわ。彼女の演技を、私たちは永遠に忘れない!」。5度の世界選手権優勝者であり、2度のオリンピックメダリストであるミシェル・クワンもツイートしました。


ミシェル・クワンのように浅田真央は、オリンピックで金メダルを獲らなくても永遠に記憶に残る、稀有なスケーターです。


私の心の中で、浅田真央はいつも、羽のような軽やかさと優美さで、すいーっと氷の上を横切っていくのです。(完)