ひと昔前まで、香港には数軒しか本屋さんがなかったような気がする。
この場合の本屋さんというのは、ハードカバーの書籍や辞書を扱う書店で、雑誌類は「報攤(ポータン)」と呼ばれる新聞スタンドで買うのが一般的だ。
「いくらなんでも、本屋さんが少なすぎない?」。香港人に尋ねると、決まってこういう返事が返ってきた。「大陸人と台湾人は本を読むのが好きだけど、香港人は嫌いだからね」。
「香港人は本が嫌い」というのには、訳がある。広東語はもともと文字を持たない言語で、しゃべっている言葉と書くときに使う言葉が違うのだ。話すときは広東語だけど、書くときは北京語。香港人は北京語のことを「国語=普通語」と呼ぶ。
ところが、この北京語の文字を読むとき、頭の中の発音は広東語である。
例えば、「見る」という意味の広東語は、話すときは「睇(タイ)」。書くときは「看」である。この「看」の広東語読みは「ホン」だか、北京語読みは「カン」。
さらに、香港人の中には、北京語は書けても話している広東語を文字に起こせない人が結構いる。普段書かないから、知っている必要はないのだそうだ。
会話では使っていても、文字では表わせない言葉もたくさんある。それらは、意味や発音をもとに、学者などが"造字・作字"して、新聞や雑誌などで使われ、定着するとそのまま使われていくという。
例えば、「より~」という比較級を表わす「ディー」は、英語の「D」や発音から作字した「ロ的」を使って、
「もっと速く!」なら、「快D」「快ロ的」と書く。
北京語表記で「有没(あるかないか)」も、広東語なら「有」という字の横線を取って「無い」という意味で
である。
そんなこんなで、日本人は日本語の辞書を使うが、香港人は広東語の辞書を使わない。第一、私が広東語を勉強していた頃は、辞書なんて売ってなかった。香港大学の語学コースに短期留学した時、若い女性教師が、ようやく広東語辞典を編纂していたほどだ。
こういう状況は、日本人には理解しがたい。「なんで?」と、いろんな人に聞いたけど、はっきり答えてくれる香港人もまた、少ないのである。
唯一説得力のあった説明は、「広東語は、もともと文字を持たない言語だから、広東語を書くという機会はない。ただ、中国という国家としては共通の文字が必要だから、標準中国語である北京語が、統一言語として定着した」というものだ。
教科書も新聞も週刊誌も小説も北京語で書かれていて、普段の会話と文章の文法や単語が違うなら、「香港人があまり本を読まない」というのも理解できる。私だって、 古文や漢文の教科書や源氏物語の原文を読みたいかと言われると、腰がひける。
こうなると、 広東語を習おうとする外国人にとっては、まことに厄介である。 「広東語の本を読みまくっていたら、いつのまにかペラペラになっていた」なんてことには、ならないのである。
「"広東語の喋り言葉をそのまま書いてある書物"さえあれば、広東語が簡単に習得できるはずだ」。そう思うと、私はあきらめきれなかった。
本屋さんや「報攤(ポータン)」を覗いては聞いてみたが、答えはいつも「没(モウ)!」。
しかしある時、一人のご婦人が顔をしかめながら、小声で耳打ちしてくれた。「鹹書(ハームシュッ)」=「エロ本をご覧なさい」。
「報攤(ポータン)」には、夜になるとエロ本・エロ雑誌の類がずらっと並ぶ。私は、売り子親父が忙しい時間帯を狙っては、本の中身をサッとチェックし、走って逃げたものだ。
そして、ある時ついに、湾仔のエキシビションセンターで開かれたブックフェスティバルの会場で、 しゃべり言葉そのままを書いてあるエロ本を発見!
有名な作曲家 黄霑(james wong)著の、「香港仔」 をはじめとするエッチ系小説だ。全種類7冊を買い占めた私を見るレジのアルバイト少年のまなざしは、「エッチな日本人」という軽蔑に満ちていた。
さて、苦労して手に入れたエロ本を使って、私の広東語は飛躍的に上達・・・しなかった。だって、内容がつまんなーい。
日記による告白形式で、「日記よ日記、どうして素晴らしい妻がいながら、私は他の女とも付き合うのであろうか」ってな具合で、弁明交じりの文章は、ページをめくれどもめくれども、期待したような内容はなく、最初は辞書を引き引き読んでいた私も、「えぇーい、つまらんわい!」ということで、 放り出してしまったのだ。
まあ、つまり私は、ただの「エッチな日本人」であったというわけだ。