こんばんは。「選べる宇野昌磨カレンダー」の宅配便を受け取った種子島ぴーです。
薄くて長い段ボールで届きました。
ゆっくり見たいので、まだ開けていません(笑)
さて、気になっていたISUの浅田真央ちゃんの記事を訳しました。
Past Master: Mao Asada (JPN), the instant star - International Skating Union
写真なしの文章のみの紹介となります。
長いので独自の小見出しをつけています。*引用元記載のものではありません。
翻訳に未熟な部分もありますが、ご了承の上お読みいただければ幸いです。
名選手たち: 瞬く間にスターになった浅田真央
彗星のごとく現れたスター
2004年の秋にアメリカのロングビーチで開かれたジュニアグランプリシリーズで、浅田真央がすい星のごとく国際舞台に現れると、彼女はあっという間にスターになりました。
この小さな日本のスケーターは、大会でトリプルアクセルを跳んだのですが、いとも簡単に跳んでいるように見えました。
真央は、競技会で初めてトリプルアクセルを跳んで、すでに伝説の人になっていた伊藤みどりを輩出した名古屋の出身です。同じ山田満知子コーチに師事していました。
最初は姉の舞の後を追っていましたが、すぐに頭角を現しました。
彼女を人気者にしたのは、競技での成功のみならず、キャリアの中で良い時期も悪い時期もあり、多くの障害を乗り越えなくてはいけなかったからです。
浅田は、リスクを冒すことを恐れず、常に新しい挑戦を求めていました。
長きにわたる日本のフィギュアスケートブームの、第一歩を踏み出した人です。</p
年齢の壁にはばまれて
ジュニアで2004-2005年シーズンを楽々と席けんし、2005年にカナダのキッチナーでジュニア世界選手権優勝を果たすと、
真央は、2005-2006年シーズンのグランプリシリーズに参加することができました。
しかし、トリノオリンピックへの出場資格はありませんでした。
冬季オリンピック前の最後の競技会であるグランプリファイナルで優勝した日本人選手について、スケート界では多くの議論がなされました。
にもかかわらず、彼女はイタリアで開かれるオリンピックに参加できず、別の日本選手荒川静香が、金メダルを獲りました。
その後、ルールは変更され、国際大会に出場できる年齢は、ISUの大会もオリンピックも同様に、7月1日までに15歳になっている必要があります。
浅田は、世界選手権で5度メダルを獲得していますが、初めての出場は、2006-2007年シーズンまで待たなければならなかったのです。
その大会では、母国日本の東京で、銀メダルを獲得しています。
ライバル対決にメディアが熱狂
2008年に、スイスのイエテボリで、彼女は初の世界選手権タイトルを獲っています。しかし、ジュニア時代から、最大のライバルはキム・ヨナでした。
2人は、数々のエキサイティングな勝負を繰り広げ、両者が同じ大会に出るとき、メディアの熱狂ぶりはすごかったです。
もちろん、みんな、2010年のバンクーバーオリンピックを待ちかねていました。
誰が勝つか? リスクのあるトリプルアクセルを跳ぶ真央か、安定した3-3コンビネーションジャンプを跳ぶユナか。
結果、ユナが優勝し、真央は、彼女の偶像伊藤みどりが1992年に獲ったのと同じ、銀メダルでした。
ソチオリンピックとその後
次のオリンピックまでの4年間をフルに戦った真央は、2014年のソチオリンピックの金メダル候補でした。
しかし、ショートプログラムは、大変なことになってしまいました。
トリプルアクセルで転倒し、トリプルフリップは回転不足になり、ループは2回転に。
メダル候補であり、前回の銀メダリストである真央は、自分が16位であることを知りました。
しかし、あきらめはしませんでした。
フリーに挑むと、トリプルアクセルを成功させ、フリー3位で、順位を6位まで押し上げたのです。
続いて、世界選手権で3度目の優勝を成し遂げました。
引退のシーズン
日本のスター真央は、オリンピックの翌シーズンは、競技から離れていました。
しかし、翌シーズンに戻ってきます。
2015-2016シーズンは、グランプリファイナルに出場する資格を得ましたが、負傷のため苦戦しました。
そして、10年以上にわたってトップスケーターであり続けたのち、ついに2016-2017年シーズンをもって、競技から引退したのです。
「引退を発表した後、スケートをやめようと思いました。スケート靴を捨ててしまいたい気持ちでした。
心身ともに、疲れ切っていたんです」と、ISUの最近のインタビューで、浅田は話しました。
「生の真央ちゃんを、まだ見てないよ」
「それから、自分に何ができるか考えました。そして、『真央ちゃんの生のスケートを、まだ見たことがないよ』と、ファンの方々からたくさんのメッセージをいただいていることに気が付きました。
みなさん、私の演技をテレビでは見られたけど、生では見られなかった、と。『まだ滑れる。日本中をまわってショーをしよう』と思いました」
彼女の無数のファンが大喜びしたのですが、浅田は、無良崇人、今井遥といった日本のスケーターたちを中心にキャストし、国内ツアーを始めました。
ショーでの彼女は大忙し。
10のソロナンバーとグループナンバーを演技します。
「昨年は、12の地域でショーを開きました。一か所で、2、3日、ショーを開催します」
今年は、20以上の都市を訪れます。
一変した生活
相変わらず、氷上にいる時間は長いものの、浅田の生活は一変しました。
「もちろん、毎日、スケートをして、トレーニングもたくさんします。でも、スケジュールはキツキツではありません。家でリラックスする時間もあります。スケート以外のこともたくさんできます。別の世界があるんだなって気づきました。
今は、スケートをとても楽しんでいて、ショーで滑るのと試合で滑るのはまったく別ものだとわかりました。ルールがないので、試合のときより、スケートを楽しんでいます」
と、彼女は近況を話してくれました。
アイスホッケーやボクシングのような別のスポーツも試してみたけれど、あくまでもエクササイズとして。
パラリンピックのアスリートにインタビューをする番組も持っています。
今もスケート競技界に関心あり
生活は変化したものの、スケート競技界をチェックしていて、後継者が何をしているかに興味を持っています。
かつて、彼女はトリプルアクセルでスケート界をけん引しましたが、現在では、4回転ジャンプを跳ぶ選手が増えつつあります。
「女子のフィギュアスケートは、どんどんレベルが上がっています。日本だけではなく、ロシアの選手もです。
選手時代は、自分が最高レベルにいると思っていましたが、あれが私の限界です。今は、私が当時やっていたよりも、レベルの高いことをやっています。
4回転ジャンプを跳ぶなんて、すごいと思うし、とても尊敬します。
ちっちゃい頃は、4回転が跳べるかもしれませんが、年齢と共に体形が変化して、跳ぶのは難しくなります。怪我をしやすくなるので、注意しなくては。
スケーターにはチャレンジ精神を持ってほしいですが、怪我や事故は避けてほしいです。そのためには、体も気持ちも強くある必要があります」
と、彼女は締めくくりました。
おしまいです。