日本のファッション、日本のテレビドラマ、日本の食品、日本のアダルトビデオ……かつて香港では、「日本ブーム」が花開いていた時期があった。日本直輸入のものもあれば、怪しい日本語のタグや包装紙のついた"似非日本製"の商品も大量に出回っていたのである。
映画『美少年の恋』やお菓子のブランド『優の良品』のように、「の」をワンポイントで使ったネーミングで、おしゃれな印象を与える戦略も流行った。その総決算とも言えるのが、1998年夏の「日本語 T シャツブーム」だったのではなかろうか。
銅鑼湾(コーズウェイベイ)をブラブラと歩いていた時のこと。洋服屋の店頭を飾る Tシャツに目が留まった。
Tシャツの胸に書かれた文字は、「頭が低い」。
「頭が低いですと?」。分かったような分からないような妙な消化不良感が、深く心に残るフレーズである。近寄って手に取ると、腕の部分には「ジョーダンノ」の文字が。
「な~んだ冗談か」と思ったが、いや待てよ。この店の名前は『ジョルダーノ(GIORDANO)』。泣く子も黙る、香港ナンバーワンカジュアルブランドなんである。
ってことは、「ジョルダーノ」→「ジョーダンノ」のミスプリントなのか?
何気なく周りに積んであるTシャツたちを見ると、「1日作さぎざれば、1日食わず」「まき来て下さい」「山ち渓谷」などなど、どれもこれもヘンテコな文字がプリントされている。
思わず「へへっ」と笑っていると、店の奥から店員が飛んできた。
「何笑ってるの?」と聞かれて、「だって、この日本語変だよ」と答えると、店員はさっと顔色を変え、「ちょっと待っててくれ」と言うと、社内放送でマネージャーを呼び出した。
すっ飛んできたマネージャーがたずねる。 「どのT シャツの字が間違ってるの?」。
「全部」。
マネージャーは、弾かれたように店の奥に飛んで行き 、どこかへ電話すると、やがて一枚のファックス用紙を手に戻ってきた。
ファックス用紙は、デザイナー宛の指示書のようなもので、普通語(北京語)で四字熟語やらコトワザやらが書かれていた。それを誰かが日本語に翻訳したらしい。
店員はファックス を私に見せ、そのへんからダンボールの端切とマジックを持ってくると、私に渡して「正しい日本語を書いてくれ」と言う。これも"日港友好(香港と日本の友好親善)のためと、私は一つずつ直していった。
「一日作さぎざれば、一日食わず」は、「働かざる者、食うべからず」。「まき来て下さい」は「また来て下さい」。「山ち渓谷」は「山と渓谷」。「頭が低い」は「実るほど、頭を垂れる稲穂かな」のようであったが、そんなに長い文章をTシャツにプリントしてもしようがないので、「日本人は〝頭が低い〟なんて言わない」とだけ伝えた。
この間、20分くらいかかったろうか。私はひそかに、「どうもありがとうございます。よろしければ、お礼にTシャツを一枚お持ちください」などというスイートな展開を期待していたのだが、作業を終えた私に「ありがとう」と言うと、マジックとダンボールの端切をもぎ取って、店員は店の奥に引っ込んでいった。
「天下のジョルダーノが、Tシャツの1枚や2枚や3枚、ケチってどうすんの!!」と思いながらも、「面白いから」と同僚のお土産に4枚ほど購入する私。しめて6000円の出費だ。
この件を香港人に話すと、「日本人は馬鹿だね、香港人なら、最初にいくらくれるか聞いてからやるよ」と笑われた。「今度頼まれたら、教える前にいくらくれるか聞いてからにしよう」と思う私の頭に、もう"日港友好"の文字はなかった。
*ひと昔前の愛すべき香港滞在記をまとめたものです。現在とは変わっている点があることをご了承ください。