NHK杯のジャッジについて、
引き続き、いろいろ考えたり、思ったりした1日でした。
そんな中、「審判(ジャッジ)に個性は必要か?」というテーマが浮かんできました。
審判には、演技をジャッジする人と、
技術的なことをジャッジする人がいますよね。
演技の審判については、好みもいろいろだし、
昔から不正の温床になってきたわけですが。
今回、特に考えているのは、技術審判について。
「あのテクニカルコントローラーは、回転不足を厳しめに取る傾向があるよね」とか、
「あのジャッジは、毎回、〇〇選手に厳しいよね」と言ったことを、
私たちは時々、口にします。
言ってみれば、審判にも個性があり、傾向がある。
だけど、そもそも、それは、有りなのでしょうか?
「あの人は、〇〇な審判だ」という“個性”は、必要なのでしょうか?
認められるのでしょうか?
というのも、あくまでも私のイメージですが、
大きな大会の技術審判という大役を任されたら、
- 「俺は、甘くない審判である」
- 「厳格にジャンプを見極めて、審判として一目置かれたい」
という気持ちが、起こる人もいるのではないでしょうか。
仕事なら、起こるのが自然だと思うんです(推測です)
もちろん、「選手の努力をなるべく認めたい」「疑わしくは罰せず」という審判もいると思います。
もしも、スケートアメリカの技術審判は、寛大に見るタイプで、
NHK杯のコントローラーは、ちょっとでも怪しかったら×。疑わしきは、罰する…というタイプだったとします。
同じ努力をしても、スケートアメリカにエントリーしたA選手は、
シーズンベストやパーソナルベストを打ち出し、場合によっては、世界最高得点を歴史に刻み、グランプリファイナルにも出場できる。
一方、NHK杯にエントリーしたB選手は、
SPの回転不足判定で下位発進。テンションが下がりながらも、気持ちを立て直してフリーに挑む。しかし、回転不足をまたまた取られて、モチベーションただ下がり。ファイナル進出の夢は消えた。
・・・とかってことになると、影響が大きすぎやしませんか?
そう思うと、「ジャッジに個性があるってどうなの?」と、冒頭の疑問にぶつかってしまったのです。
だけど、「個性があるのはよくない」ということになると、
ロボット(AI)に判定してもらうしかない、ということになる。
逆に、ジャッジが人間である意味は、どこにあるんでしたっけ?
人間がやってる芸術スポーツを、ロボットがジャッジする意味は、どこにあるんでしたっけ?
「四大陸選手権とヨーロッパ選手権は、ジャンプのエッジ判定が厳格な大会である」
とか、「世界選手権は、表現を重点的に評価してもらえる大会である」とか、
大会ごとのカラーであれば、受け入れられる気もします。
だけど、グランプリシリーズは、シリーズとして統一してほしい。
これは、やっぱり思いますよね。
宇野昌磨選手のフリーの件だけでなく、
今回は、女子のSP、フリーの回転不足、エッジエラー、コールが多くて、
正しい判定なのかどうかわからないので、
「厳格だった」とは書かないけれど、スコアシートがマークだらけで、美しくなかった。
女子のフリーは、出遅れたSPからの逆転を誓って、
全力で演技しているスケーターが何人もいたので、
「やったー」って笑顔と涙で観客に挨拶して、
リンクを降りてコーチとハグして、
キスクラで手を振ってからの、
得点を見てからの、魂が抜けたような表情が、
なんともつらかったです。
繰り返しになりますが、最低限、「今年のグランプリシリーズは、●●氏が全大会のコントローラーです」と、統一してほしい。
結論は出ていないけれど、いろいろ考えちゃうのであった。
と思ったら、宇野昌磨選手の発言を受けて、
松原孝臣氏が、ちゃんとした記事で取り上げてくれています。
宇野昌磨だけじゃない、フィギュアにおける採点、基準の統一の問題をどうする 他試合より厳しかったNHK杯フィギュアの技術審判で浮き彫りになった課題 | JBpress autograph
元フィギュアスケーターが、中途半端にコメントしているのも見ましたが、
ああいうのは、さらなるミスリードを生む気がします。
宇野選手は、“モノ申す”ではなく、
判定を受けて、自分のこれからについて感じたことを吐露しただけです。
それをフックに、ファンや記者やコーチが、
いろんなところで議論するきっかけになって、よかったと思います。