オオナゾコナゾ

種子島ぴー/九州出身、東京在住。夫と二人暮らしです。旅行のこと、フィギュアスケートのこと、香港のことを中心に、右から左へ流せなかった大小の謎やアレコレを、毒も吐きながらつづります。

町田樹さんの勇気あるインタビュー

私の夫は、テレビでアスリートが「スポーツで感動を与えたい」とか「お客さんに感動を与えられるスケーターになりたい」とか言うのを聞くたびに、

「“感動を与える”っていうのが、よくわかんないんだよなぁ」と、つぶやきます。

 

私は、と言えば、「まぁ、そう言うだろうな」ぐらいに思って、深く考えたことはありませんでした。

 

最近では、ジュニア世代のスケーターも、「見ている人に感動を与えられるスケーターになるのが目標」と話す人が少なくない印象です。

 

だから、アスリートが「感動を与えたい」という違和感──元フィギュアスケーター・町田樹がいま伝えたいこと という記事のタイトルに驚き、一気に読み進みました。

 

news.yahoo.co.jp

 

まず思ったのは、インタビューの発言すべてが、とても勇気ある内容だということ。


「観ている人に感動を与えたい」という件ひとつとっても、何百人というアスリートが口にしてきた言葉だと思うので、それに対して「嫌悪感さえある」と言えるのは、勇気がいる。

確かな考えと、「なぜそう思うのか」という感覚を分析して言語化する能力があってこそ、だと思う。

現役時代の自分に対しても、率直に心境を明かしていて、すごいと思いました。

 

(撮影:近藤俊哉氏)

「そして本来、感動するか否かは受け手に委ねられているものです。Aさんは感動しても、Bさんは感動しないことだって普通にあり得ます。それはフィギュアでも同じです。『感動を与える』という表現は、あたかもアスリートがベストなパフォーマンスを発揮すれば、誰もが喜ぶと一方的に『感動』を押しつけている印象を受けます。スポーツは無批判に『良いもの』とされ、皆が感動するだろうと思い込むことの傲慢さみたいなものを、現役時代から感じていました」

 

しかし、アスリートに対して、ちゃんとフォローもある。

町田さんがもう一つ危惧することがある。それはアスリートに「感動を与えたい」と言わせるような世の中の空気だという。それを如実に感じたのが、スポーツが“不要不急”といわれたコロナ禍だった、と町田さんは語る。

この辺りが、町田さんのやさしさですよね。

 

日本には、「ただ、スポーツをしているのは遊び」みたいな感覚があるように思います。部活や少年スポーツクラブを入り口に、スポーツを始める人が多いからかな。分析していないのでわからないけれど。

 

「スポーツをするなら、社会貢献をしなくてはいけない、経済効果をもたらさなくてはいけない」という謎の責任感を、アスリートに感じさせる空気が、あるのかもしれません。

 

「『スポーツの力』や『感動を与える』という言葉には、時として社会をも動かす大きな力が宿ります。しかし、そもそもスポーツは、たとえ経済発展や平和の創造や感動を与えることに貢献しなかったとしても、この人間社会において、古代から脈々と継承されてきた、かけがえのない『文化』なのです。ですから、アスリートとして誇りを持つべきです。アスリートは競技を行うだけで、すでに十分に役割を果たしていると私は思います」

 

その通り。「アスリートは競技を行うだけで、すでに十分に役割を果たしている」ので、存在だけでいいと思う。

 

でも、最近は、スポーツ中継や雑誌のインタビューで、いろいろ質問されるので、
言語化が得意でない選手は、「感動を与えたい」と言うのが、おさまりがいい面もあると思います。
町田さんの話に納得しつつも、「自分ならどう言うだろうか?」と考えると悩んでしまう私は、「今後、『感動を与えたい』って言いにくくなるな」と、心配してしまうのであった(笑)

 

さて、記事の中でもう一つ。
アスリートとしてピークだと思われた全日本選手権で、驚きの引退表明をしてファンの悲鳴を誘った町田さん。あの頃のことを、

 

「競技者・町田樹は、いわば泥船でした。このまま競技者を続けていったとしても、体力の衰えなどによって沈んでいくだけ。新しい船に乗り換えなければ、私の人生はじきに立ちゆかなくなることが目に見えていたわけです」

 

と話していたのに、はっとしました。

ピークで感じる泥船感…

 

さて、新横浜のスターズ・オン・アイスに向かいます。
昌磨くん、今日は何を演じてくれるのかな。楽しみです。

CS生放送もありますよ~