オオナゾコナゾ

種子島ぴー/九州出身、東京在住。夫と二人暮らしです。旅行のこと、フィギュアスケートのこと、香港のことを中心に、右から左へ流せなかった大小の謎やアレコレを、毒も吐きながらつづります。

「浅田真央:人を引きつける魅力と氷上の芸術性で、時代を築いた人」。ジャパンタイムズ翻訳

こんにちは。くしゃみが止まらない風邪ひきかけの種子島ぴーです。

みなさまは、大丈夫でしょうか??

 

さて、私にとっての真央ちゃん月間(5月)も明日で終わりということで、以前から気になっていたジャパンタイムズの記事を翻訳してみました。

 

翻訳家ではないので、誤訳・意訳が含まれていることをご容赦ください。また、翻訳の内容について、記者の方は一切の責任を負っていない点をご了承ください。

 

浅田真央:人を引きつける魅力と氷上の芸術性で、一つの時代を築いた人。

BY JACK GALLAGHER

www.japantimes.co.jp

 

これは、1989年から明仁天皇が退位される4月30日までの平成という時代に、影響力を与えた人物を取り上げるシリーズの第13回。

平成という時代、日本は経済超過と不景気、政治と社会改革の闘いでうんざりしていました。このシリーズでは、時代に痕跡を残した人々を探究します。

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共同通信

世界選手権の3度の女王であり、平成初期に生まれた浅田真央は、物語性のあるキャリアと、フィギュアというスポーツを新たな高みに押し上げたことで、国際的に傑出した人物になりました。

名古屋生まれの真央は、5歳でスケートを始めると、すぐに天賦の才を見出され、(真央ちゃんと)あだ名で呼ばれ、高い期待に応えていきました。

12歳のときに、国内ノービスで優勝。14歳でジュニアのタイトルを取り、16歳でシニアの優勝を飾りました。

 

ただ優勝しただけでなく、真央の勝ち方…スタイルと品格のある態度…に、人々が共鳴したのです。
まだノービスの時代に最初に跳んで以来、トリプルアクセル(3回転半する難しいジャンプ)をマスターしたことは、彼女のトレードマークになりました。

 

50年以上にわたって日本と密接な関係を持つベストセラー作家、ロバート・ホワイティングは、真央を、日本の最も伝説的なスポーツ選手の一人と比較しました。

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共同通信

「彼女は、野球の長嶋茂雄(読売巨人の元監督)の女性フィギュアスケーター版です。必ずしも、 (成績が)これまでで最高だったわけではありませんが、はるかに人気があります」

日本野球の殿堂入りを果たした長嶋と比較すると、適合する部分があります。長嶋と同じく、真央は日本人の精神の何か深いところに触れたのです。

人々を誇らしい気持ちにさせたのは、スポーツへの純粋な愛と彼らの魅力です。

彼らは、すぐれた日本人の代表であり、魅力的で才能があり、決断力を持ち、いつも一流のパフォーマンスを披露しました。

 

「彼女は素晴らしい才能の持ち主でしたが、同時に、人々と心が通じ合う明るい個性も持ち合わせていました。」と、ホワイティングは分析します。

「彼女は“本物”であり、逆境にも気高さを持って対処したのです」

 

大げさではなく、日本では誰もが真央を知っています。

キャリアの後半になると、ある調査によれば、一般人における彼女の認知度は、99.7%だったそうです。

率直に言えば、真央は、国内外でスーパースターでした。

氷上の優雅さと芸術性は、スケートファン間でもメディアの間でも、世界的な支持を集めています。

 

USAトゥディのコラムニスト、クリスティン・ブレナン(彼女の著書「Inside Edge」は、優れたスポーツ書のトップ100に常に入っています)は、2017年4月に真央が引退を発表した後の影響を予測しました。

「真央は、スポーツの歴史の中で、もっともすぐれたスケーターの一人でした」と、ブレナンは書いています。

「彼女は、画期的で革新的で叙情的で、美しくて……演技を見て報道する(取材する)だけで、喜びでした。素晴らしいアスリートであり、優れた芸術家でした。つまり、彼女は、フィギュアスケートの本質を具現化していたのです

 

真央が最初にシニアをざわつかせたのは、まだジュニアクラスにもかかわらず、国際スケート連盟が彼女の出場を許可し、2005年のグランプリファイナル東京で優勝してしまったときでした。

日本とアジアのスケートブームは、そのグランプリファイナルで、真央が優勝したことに起因しているかもしれません。

 

「真央とユナキムは、あのエリアのフィギュアの世界で火花を散らしました」と、ISUのアナウンサー、テッド・バートンは言います。

実際、真央とキムは、現在は世界の舞台で活躍しているスケーターたちの世代を、触発しました。

 

「アジアの女王たちのライバル関係は、平成のスケート界の最もエキサイティングな時代でした」と、日本女子で初めて世界選手権でメダルを取った渡部絵美。

「私たちをフィギュアにくぎ付けにしたのは、ユナキムと真央です。真央は常に勝者だったわけではありませんが、トリプルアクセルを跳んで成功させようとする努力は、歴史を創りました」

 

出場権を満たすのに4カ月遅れの誕生日という運命のねじれが、同胞の荒川静香が金メダルを獲った2006年のトリノオリンピックに、参戦するのを妨げました。

 

真央の業績リストは非常に長く、深い感銘を与えるものです。

国際大会でトリプルアクセルを跳んだ、初のジュニア選手です。2004年のジュニアグランプリファイナルでのことでした。2005年には、世界ジュニアチャンピオンに。

 

キャリアのハイライトのひとつは、2008年に韓国で開かれたグランプリファイナルで、一つのプログラムの中で二度のトリプルアクセルを跳んだ初の女性となって、キムを破って劇的な勝利を飾ったことでしょう。
この優勝は、グランプリファイナルで4度優勝したうちの一つです。

 

全日本選手権で6度優勝し、真央は、グランプリシリーズの7つの大会すべてで優勝した、初めてのスケーターです。

2度のオリンピックで金メダルを獲り、世界選手権で5回優勝しているスケートのアイコン、ディック・バトンは、コネチカット州のハートフォードで開かれた2006年のスケートアメリカで初めて真央を見たとき、うわっ!と驚きの声を上げました。

「真央のようなスケーターは、見たことがありませんでした…これほどまでに流れるようで、ソフトで優雅で、創造性があり、ワイルドに技術的なことに挑むスポーツ精神を持っている」と、その時バトンは、スケートライターのフィル・ハーシュに話しています。

 

真央は、ジュニア、シニアのキャリアを通じて、すばらしい世界記録を築いています。

彼女が2005年の世界ジュニア選手権で樹立したフリーとトータルの得点は、6年にわたって破られませんでした。

 

2008年、2010年、2014年のシニア世界選手権での優勝は、輝かしいキャリアの中で最高の瞬間でしたが、究極の賞である金メダルを獲ることはできませんでした。

2010年のバンクーバーでは銀メダル、2014年のソチでは6位でした。

 

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共同通信

金メダルを逃したにもかかわらず、真央は、尊敬される人物として、スケート界に名を残しました。

 

「彼女のこのうえなくすばらしいエッジワーク、際だったポジショニング、卓越したステップは、洗練されたレベルのバイブルであり、他のライバルが肩を並べられるものはほとんどありませんでした」と、真央が引退したとき、ハーシュは書いています。

 

ソチの後、英気を養うために1年間の休養を取りましたが、引退するまでの2シーズンでの優勝は、2015年の中国杯だけでした。

彼女が引退して2年が経った今も尚、日本はまだ真央の後継者を探しています。

彼女が残した世界は、彼女の能力とフィギュアのサポーターたちに与えた影響の両方において、重要なものです。

 

「真のチャンピオン(真央)は、いろいろな意味で、私のチャンピオンリストの中で永遠のお気に入りになりました。スケートだけでなく、他のスポーツを含めても」と、渡部は言います。
カリスマ性に加えて、優雅さとアスリート精神が融合している点が、真央をスケートと日本両方の、忘れ難いファンタスティックな大使にしたのです。

(完)