オオナゾコナゾ

種子島ぴー/九州出身、東京在住。夫と二人暮らしです。旅行のこと、フィギュアスケートのこと、香港のことを中心に、右から左へ流せなかった大小の謎やアレコレを、毒も吐きながらつづります。

トゥクタミシェワ引退インタビュー「採点とジャッジ は人生をどう蝕むのか」

エリザベータ・トゥクタミシェワ選手が“競技からの”正式な引退を発表しました。

 

 

分かっていたことではありますが、国際大会で引退試合を見られないことが心底残念…と思えるスケーターです。

アイスショーに出演する可能性は残されていますが、

いつかロシアとウクライナの戦争が終結し、彼女が来日して私たちの前で演技をしてくれる日は来るのでしょうか?

 

…って、そういえば、ザギトワとシェルバコワがファンタジー・オン・アイスに出演した件は、どうなったのでしたっけ?

 

他国の国籍を取得して活躍しているロシアの選手もいれば(二重国籍かどうかは不明)、移籍を承認されない選手もいるし、国際大会に同行しているコーチもいれば、男女シングルのみはミラノオリンピックに出場できる…摩訶不思議な世界です。

 

そんなわけで、エテリ組の低年齢の少女たちが、マシンのようにスーパーハイパージャンプで国際大会を席巻していた時期、トゥクタミシェワは、シニアの女性らしい表現と個性、トリプルアクセルを両立させる稀有な存在として評価されていました。

 

特に北京オリンピックの前は絶好調で、「トゥクタミシェワにオリンピックに出てほしい」と願うファンは多かったと思います。

 

引退表明後、2時間ものインタビュー動画が公開されました。(自由に見られます)

 

youtu.be

 

その中で、

・採点とジャッジ ― それが人生をどう邪魔するか
・“永遠に点数をつけられる”ことで生まれた劣等感

の章に興味を持ったので、AIに訳してもらいました。

AI訳なので、彼女の言いたいことと完全に一致していないかもしれませんが、

共感できる部分が多かったので共有します。

 

◆(インタビュアー)演技から伝わってくる感情を評価するということですね。
採点とジャッジング――それがどう人生を妨げるのでしょうか。

 

採点、そう。
私も、芸術を点数で評価するのはすごく奇妙だと思う。
結局、人それぞれ見えるものは違うから。
いつだって主観的です。

 

◆フィギュアスケートを点数で評価するのは正しいの?

 

フィギュアスケートは芸術だけど、同時にスポーツでもあります。
おそらく“まずスポーツ”なんだと思う。
誰が勝者なのかを決めるためには、やっぱり点数システムが必要。
そして、審査の主観性がどれだけあるかを理解できるような仕組みも必要。

 

ジャッジは選手に対して完全に公平でなければならないし、
選手と私的な関係を持つこともあってはならない。
話したり、仲良くしたり――それすら禁止されていると思う。
それによって、審判は氷上で見たものを純粋に、公平に評価できるようにするために。

 

でも現実にはいろんなことが起きる。
人間だから――機械じゃない。
完璧にルール通りに採点できるわけじゃない。
人間はどうしても、自分の何かを評価に入れてしまう。

 

◆「速く」「高く」「強く」といった明確な基準がない競技に取り組むってどんな感じ?誰か一人に気に入られなかっただけで負けることもある。

 

とても難しいです。
だからこそ、コーチたちはいつも言うの――
「他の選手より何段も抜きん出ていないと勝てない」と。
仮に誰かの審査員の好みに合わなくても、
多数の審査員が“1位”をつけざるを得ないレベルでなければいけない。

 

ラファがネイサンに同じことを言っていましたよね

 

そのために、他の選手と違う何かを持っていなきゃいけない。
それは幼い頃からずっと教え込まれること。

でも一番大事なのは、審査の点数があなたの世界観――
もっと言えば、あなたの“内側の核(アイデンティティ)”に影響しないこと。
ジャッジの点数と、自分の価値を混同しないこと。

 

ジャッジの点が低かったからといって、
あなたが「悪い人」になったわけじゃない。
何も悪いことをしていない。
失敗は氷の上で起きただけのこと。
ミスは誰にでもある。

 

◆“評価され続けることで生まれるコンプレックス” 

子どもの頃から何十年も、氷の上で人に採点され続けると――
社会でも常に“他人の評価”を求めてしまうようになる?

 

なる。100%そう。
「私」と「私の結果」は本来別であるべき。
氷の上の成果とは関係なく、自分自身が安定していなきゃいけない。

でも、スポーツの結果=自分自身 と考えてしまうと、心が折れる。
引退してからもずっと、誰かの評価を待つようになってしまう。

 

何かを少しでも間違えると「自分はダメだ」と思ってしまう。
自信がなくなる。
新しいことを始める勇気も持てなくなる。
また評価が怖いから。

誰かに怒られる前に、自分で自分を責めてしまう。

 

◆それは、あなた自身の話でもある?


そう。もちろん一部は私自身の経験です。

 

◆他人がどう思うか、すごく気にしてしまう?


以前は特にそうだった。
今は心理カウンセラーに通っていて、ずいぶん楽になった。
だから、こうしてあなたのインタビューも受けようと思えたの。

 

現役の時も、引退直後も、いつも頭の中は
「どう思われるだろう? どう評価されるだろう?」でいっぱいだった。

リンクの上だけじゃなくて、
インタビューでどう見えたか、
恋愛でどう見えたか、
日常の振る舞いまで気にしていた。

「今の私、ちゃんと見えてる? OK、大丈夫。よし、続けよう」
そんなふうに、些細なことまで気にしていた。

 

◆自信なんてあるわけないよね?

 

ええ、本当に自信を壊すんです。

世界選手権のメダリストで、若くて、美しくて、
寮の小さな部屋から自分の力でここまで来たのに――
それでも自分を“完全な人間”だと思えない。
自信が持てない。

 

採点競技をやってきた人の多くが、引退してもしばらくは同じ気持ちを引きずる。
こんなに早く消えるものじゃないから。

 

ずっとこの動画で話してきたけど、
フィギュアスケートが“閉ざされた世界”になっている理由の一つはここかもしれない。
評価されることへの恐怖、
みんなに好かれたいという気持ち。

完璧なイメージを作ろうとする人が多いのはそのせいかも。
氷の上でも、氷の外でも“仮面”をつけるようになってしまう。

 

◆ここに辿り着けたのは、すごいですね。

 

本当に、その通りだと思います。

フィギュアをやるということは、
常に“良い点数を得たい”という気持ちを持つということ。

そしてそれが人生にも入り込む――
良い評価を得たいなら、それにふさわしく振る舞わなければいけない。
社会の評価が、リンクでの評価に影響しないように。
そしてリンクでの評価が、社会の評価を壊さないように。

全部がつながってる。
足りないのは“自由”。
自由に自分のやりたいように生きること。

 

選手には、本来“自分の声を聞いてもらう権利”があるべき。
コーチにも言えるし、インタビューでも言える――
そうであるべきだと思う。
実際にそこまで行けるかはわからないけれど。

でも、自分の感じたことを素直に伝えること。
それが、内なる自由への第一歩なんだと思う。

 

特に心に響いた部分は、

  • 一番大事なのは、審査の点数があなたの世界観――
    もっと言えば、あなたの“内側の核(アイデンティティ)”に影響しないこと。
    ジャッジの点数と、自分の価値を混同しないこと。

 

  • ジャッジの点が低かったからといって、
    あなたが「悪い人」になったわけじゃない。

 

  • 「私」と「私の結果」は本来別であるべき。
  • スポーツの結果=自分自身 と考えてしまうと、心が折れる。

 

  • そしてそれが人生にも入り込む――
    良い評価を得たいなら、それにふさわしく振る舞わなければいけない。
    社会の評価が、リンクでの評価に影響しないように。
    そしてリンクでの評価が、社会の評価を壊さないように。

 

表彰台の常連選手とメダルを獲ったことがない選手がいたとして、

スケートの世界では優劣を付けられたとしても、

人として、個々の人生として、表彰台に上がった選手の方が優れているわけじゃない。

 

でも、フィギュアスケートみたいに10年、20年点数と順位を付けられ続け、

それが全世界に向けて発表されるのは、呪いのようなものかもしれないとも思う。

 

どの世界にいても「評価」はつきものではあるけれど。

 

思い返せば、エテリ組が席巻していた頃のヨーロッパ選手権女子の表情の暗さと言ったら!

リーザも、子どものようなエテリ女子と同じ試合に出続けていた頃は、葛藤がすごかっただろうと思う。